中沢新一講演会「東北、宮沢賢治と日本国憲法」オープニング「私の中の憲法9条を躍らせてください」

憲法九条を踊るということについて~実行委員長あいさつにかえて~

「舞踏と戦争」についてイメージするものと問われれば、身体が語るもの、とりわけ死体という言語をもたない肉体です。ものもいわず物も食わない肉体は、人間なのか肉片なのかかわからないまま饒舌に私に語りかけてきます。「舞踏は命がけで突っ立っている死体だ」という土方巽の有名な言葉が脳裏にこびりついているせいかもしれませんが。

「戦争」という言葉に限れば、稲作農家ゆえか、飢えが一番最初に頭に浮かびます。

先ごろ日本の食料自給率が再び下がった、と報じてました。私自身こうして電気で文字を書いて(パソコン)、厚いときはエアコンで涼をとり、農機具に頼りっぱなしのせいか、ご飯の消費量がめっきり減りました。おまけに、「かつては銀シャリともいわれたこんなにおいしい白いご飯を食べなくなっているなんて罰当たりな」という思いと、自分の手で育てている思いが重なり、過食気味となり、玄米食に切り替えた次第です。たまに白いご飯を食べるとおいしいこと(笑)

軍備は食糧政策に似ているような気がします。「攻められたらどうする、食糧がなくなったらどうする」。どちらも過剰になりがちで、不安なんだけど、お米より他のものを食べたくなってしまうんだよね。

なんだかんだと50歳。すっかり便利な生活になれ、精神がなまっているのか、はたまた、肉体が求めていることなのか、日々の生活、農機具、教育ローンにおわれ、せわしないわりにはぼーっとして、右からこういわれれば「そうなんだよね」左からいわれれば「うん、そうかもしんないね」と思考停止状態。おいおい、なんなんだよ、と自分に声をかけたくもなる。

とくに変節というおおげさなものもないんですが、今回のダンスに使わせていただいた音楽「教訓I」(加川良)の歌詞のなかで「死んで神様といわれるよりも生きてバカといわれましょうよね」という部分に強く共感してたのに、どうも最近は、生きてバカだといわれるより死んで神様といわれるほうがいいのかな、とふと思ったりします。自衛隊の派遣報道を見ながら「50歳以上は徴兵制度を導入。食事は玄米に国産大豆原料の味噌と少しの野菜。万が一派遣先にて死亡の場合は給付金一億円、就学中の子息はすべて学費は免除。これぞ亭主元気で留守がいい徴兵制度。あったら俺、志願したいな」などという妄想に近い思いが沸きあがったりもするのですよ。

しかし、というか、それゆえ、普通に戦争に行ける憲法に改正するのは不安でなりません。平和でいるためには戦争に行けるようにしてたほうがいいんだよ、という甘い囁きにうなずきそうな自分の肉体を凝視しつつ、プロパガンダで踊るわけではないのですから。


世界を変えようとする思想がひっかかりやすい一番の罠が「平和」です。この平和というやつを表現することがいかに難しいか。ジョン・レノンだってそんなにうまくできてないかも知れない。むしろ失敗だったかもしれない。それほど「平和」を表現するのはむずかしいことです。戦争を語ることよりずっとむずかしい。天国のことより地獄のことのほうが、表現しやすいものね。-中沢新一・太田光「憲法九条を世界遺産に」より

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