合宿型「詩のボクシング」山形大会に寄せて
自分の声を発見するとは自分を発見することであり 自分の生き方を見出すことである 楠かつのり いま全国各地を訪ねて、自分のことばを自分の声で伝えようとする沢山の人たちと出会っている。自分の言葉を探し出すためにまず自分と格闘する。そのことばを背負ってリングに上がってくる朗読ボクサーは輝いていて美しい。わたしはその姿を目の当たりにするたびに朗読ボクサーを格好いいと思う。そして、百人百様の声を聞きながら、世の中には本当にいろんな人がいると驚かされると同時に、「生きる」ことを励まされるような心持ちになれるのがなんとも嬉しい。 「詩のボクシング」とは、ボクシングリングに見立てたリング上で2人の朗読ボクサーが自作を交互に朗読し、どれだけ観客にことばを伝えることができたかを競い、観客の代表であるジャッジが、その勝敗の判定を下す「言葉の格闘技」である。 実はわたしは、「詩のボクシング」を始める3年前、いまから10年前の1993年に「活字の裏にある声を引きだしたい」、「生の声のことばを聞くことが、人が人を、延いては自分を実感するには必要だ」という思いから独自の朗読会を始めていた。 その背景には、大量かつ多種多様な価値観を含み持った情報によって、人そのものがバーチャル化され、その結果としての感覚が、汗や体臭に対して違和感を示すことで、これまでの人の鮮やかな身体感覚が見失われ、そのことが他者との具体的な関係を切り結ぶことを難しくしていることへの問題意識もあった。そういった「他者が見えない」時代に、朗読の場を通して具体的な他者を見つけ出す必要があると考えていた。 「詩のボクシング」には勝ち負けがある。その判定を下すジャッジの心得は、ジャッジ各自が自分を無にして朗読ボクサーの声を聞くことにある。もしもジャッジの好みという判定ならば、ジャッジを担当する人たちも面白くはないだろう。ジャッジに苦しみがあるとすれば、どれだけ自分を無にして、他者の声を聞き分けることができるかにある。だから、朗読ボクサーが自分のことばを伝えようとよい口を持とうと闘っているのと同様に、ジャッジも良い耳を持とうと闘っているのである。 「詩のボクシング」地方大会は、先述のように全国各地で開催されるようになり、老若男女がそれぞれの思いで誰のものでもない自分の声を持ち存在することを強く印象づけてくれている。また、そこで自分を裸にできた声のことばは、聞く人の心を強く捉えてもいる。自分を裸にするということは、ただ事実を言うことではない。なぜなら、フィクションとしてしか自分を裸にすることもできないから。もちろん、裸になることは難しい。しかし、そこで苦しむことを経て、他者にそして自分の奥深くに届くことばは生まれるのではないだろうか。 「詩のボクシング」には、「詩の」とあるが、その場は「詩」や「詩人」のためにあるのではなく、いってみればまだ見ぬ声の詩に出会う場としてあるのだと考えていただけるとありがたい。だから誰でもが参加できる場ともなる。実際にいろいろな人が、さまざまなスタイルや朗読方法によって「詩のボクシング」のリングに上がって来てくれている。そして、そこでは何かを感じること、それをしっかり身体で感じられることが大切なのであって、それを何と名づけるかは問題ではない。もし名付けられるようになったときには、きっとそこには声のみの詩が成り立っていることだろう。そのときは吟遊詩人ではなく、朗読ボクサーという表現者が存在することになるとわたしは思っている。 |
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