●舞踏について。
舞踏って何ですか、て聞かれる。
いまは亡き土方巽(1928年秋田市生まれ) がモダンダンスから舞踏を創設したといわれる。
森さんの言葉を借りれば「生きること」。身体表現ならではの言葉です。生きることが踊ること・・。
大野さんの言葉に(ちょっとテキストが手元になく曖昧なんですか)「どうしたら上手く踊れるですって。あなた自身の生活を大切にしなさい」この感覚は森さんの言葉とニュアンスが似ていて、私のなかにツンと入ってきました。
「舞踏とは命がけで突っ立っている死体だ」は、よく引用される土方巽の有名な言葉です。同じく象徴的な言葉でこうも言ってます。
「一個の人間の中で、人間は生まれた瞬間からはぐれている。はぐれている自分と出くわすことが舞踏だ。だから、私は西洋の踊りのように、順番に肉体を訓練することを拒否する。『飼い慣らされた動作ばかりで生きてきて、お前は随分、酷い目にあって来たじゃないか。その原因はお前の肉体概念がいつもはぐれているからだ』と、自分の肉体を凝視させる」
●踊ること(種になること)。
私はどうして踊るんでしょう。それは森繁哉さんとの出会い、といってしまえばそれまでですが、土方の言葉を借りれば「はぐれている自分」を感ずるからです。
今回、自分の生活そのものでもある稲をテーマに踊ります。単純に種から芽を出して、苗になり青田、出穂そして実りと続く「稲」を踊りにするわけです。
庄内(余目)で生まれ育ち、田んぼはずっと側にいました。また農家の長男として家を継ぎ、稲作を中心とした農業を続けてきました。たまにパンや蕎麦に浮気しつつも、ずっとご飯を食べてきました。
稲は管理され、米は政治的になりすぎました。はぐれてしまっているんです。自然に還れない稲、そして私。はぐれた自分と出会ってみたいのです。
1999年1月9日舞台に立つことを決めたんです。
こんどは私自身が種になるのです。毎年種をまいてきました。稲であったり大豆であったり、そして、私自身に宿る種であったり。
いったんまかれたものは命を全うしようとします。途中で枯死しようと、とにかく生きようとします。
さまざまな天候のなか、さまざまな生育過程をたどります。
今回、構成、演出を森繁哉さんにお願いしました。舞台監督の池田はじめさん、制作に芸術工科大のバロック舞踊団、そのほかたくさんのスタッフがいます。そのような天候(環境)のなかで私という「種」がどう生育するのか自分で見てみたかったのです。
「稲作」というねじれた精神が私の肉体を突き破って生育するでしょうか。
さあさあ、みなさん。よってらっしゃいみてらっしゃい。踊る産直のはじまりです。