詩人の生き方、阿部利勝に寄せて

 日本の近代舞踊の基礎を築いたと謂われる秋田県出身の舞踏家石井獏は、生前「舞踏詩人」と呼ばれ、踊るということは、存在のそのものが詩であるような生き方を言うのだと言ったテーゼを、私たちに示した。存在という、そこに自分や他人が生きているという厳粛な事実を、詩という切実な表現に昇華していくことは、並大抵の力技が成せることではない。
 石井漠はそうして体ひとつで、日本の近代史を駆け抜け、表現のモダン性を拓いていったのだ。
 阿部利勝は、「肉体詩人」というのにふさわしい舞踏家なのではないだろうか。
 毎日を米作りに費やし、地域の中であれこれ社会活動する普通人としての阿部利勝が、突然詩や戯曲を書いたり、裸同然で踊ったりすることの源泉に、自分の存在からふつふつ沸いてくる確かななにかがなかったら、その行為自体を理解することが困難になるだろう。
 そのなにかというものが、阿部利勝という自己が、存在するがゆえにいやがうえにも己に湧出してくる詩というものであったら、詩は自己を突出させ過剰にさせるので、阿部利勝の稀な行動は、詩を綴る行為なのだと言うことができるのだ。
 そう阿部利勝は詩を生み、日々に詩を生きている人なのだ。だからこそ阿部利勝は、そのように自己を振舞わざるを得ないのだ。
 それは石井獏も同じであったが、生きているといったことが詩そのものなのだから、書く行為も踊る行為も、阿部利勝の厳粛で時に滑稽に突出する真剣な生き方の表出なのだと言っていい。
 こうして普通人の阿部利勝が、詩人の阿部利勝に変貌する。
 それはだれもが果たせる類のことを超え、詩人として生まれてしまった者だけが、そう生きねばならないことの現われとして私たちの前に出てくるだろう。
 だから私たちは、阿部利勝を見なければならない。詩そのもとして生まれてしまった男が、私たちに今度はどんな生き方を見せてくれるのかを、しっかり見届けねばならない。
 そういうまなざしこそが、なにかを先駆的に拓いていこうとする者へのはなむけであることを、私たちは悟らねばならないだろう。
 歴史というものは、そういう連帯がなかったら動いていかないものなのだから。
 

森 繁哉(東北芸術工科大学助教授、舞踏家)